≪3/20~3/22≫
ゴロカから首都ポートモレスビーに戻り、
ここで先に帰国するアシスタントである友人を一人見送った。
次はサウスハイランド州に位置し、
資源開発の反対派による橋の爆破事件が起こるなど治安が悪化している、
最も気合いが必要と予想されるタリであった。
ところがグルポカでパフォーマンス後に体を洗う際、山の冷水しかなかったためにひいてしまった風邪が
ここで一気に悪化し発熱にまで及んだ。
そうはいってもすでにタリ行きのチケットはとってあるため、
翌朝フライトの2時間前から空港に行きチェックインの列に並んだ。
しかし列の進みが異常に遅く、カウンターに着いたのはフライト時間が15分後に迫った時だった。
こっちは焦っているにもかかわらず、渡したチケットを持って中に入って行き、しばらく出てこなかった。
隣のカウンターの西洋人も同じような状況らしく「朝7時から並んでるんだ!」とずっと激怒している。
ようやく出てきたと思うと「No, weight」と言って何やら英語で説明してくれるがいまひとつ理解できない。
現地コーディネーターの成田氏に電話して代わりに話を聞いてもらうと、
どうやら首都で亡くなったタリ人の遺体が積まれており、
その葬式で里帰りする人が大量に乗り込んで満席状態だということだった。
気性の荒いタリ人に降りろと言って暴動を起こされても困るので航空会社も何もできない状態らしい。
諦めて航空会社が手配してくれるその日のホテルが決まるのを待っていると、
人だかりの中であの西洋人の怒りが頂点に達し、叫び声が空港内に響き渡っていた。
あの人ならタリ人とやり合えるのではないかと思いながら、
今にも殴り合いが始まりそうな状況をハラハラしながら遠巻きに見物した。
こんな常識がまかり通っているタリとは、いったいどれほどなのか苛立ちも恐ろしさも通り越して笑いがこみあげてきた。
成田氏の配慮もあり空港側が島のホテルを手配してくれた。
空港から車で40分程走り、さらにボートで15分ほど海を渡った静かなところだったおかげで、その日はゆっくり休むことができた。
この頃からビデオカメラの液晶画面が突如白くなる現象が起き始める。
翌日は無事タリに着くことができた。
空港は、空港というより柵で囲まれただだっ広い土地だった。
小雨の降る薄暗い曇り空の下、その柵の周りを取り囲むように異常なまでの人だかりができていて、旅客機から降りてきた私たちをじっと見張っていていた。
その人の多さ、異様さにはゾッとするものがあった。
荷物も山積みにされた荷台からそのまま引き渡される。
そこで早くも航空会社のスタッフが怒りはじめ、他のスタッフにも連鎖していく。
なるほど橋の爆破も勢いでやりかねない。
タリでは、村の方に入ってしまえば安全だと言われ、空港から1時間近く車で走った村にあるワリリロッジに5泊することになっていた。
成田氏の紹介のガイド、トーマスとトニーが用意してくれていた車はなぜか警察の車だった。
しかもチャーターは聞いていた通り150キナ(約6000円)と高額で、
貧乏旅行の私たちにとってはかなりの痛手であった。
トニーが「スーパーで5泊分の食料を買う」と言って止まったその場所にある建物はスーパーとは程遠い、
密売でもしているのではないかと思われる古びた倉庫であった。
トニーの忠告通り必要なお金だけ握りしめ、突き刺さる周囲の視線の中、薄暗い倉庫に入った。
警戒態勢の私たちをよそに、次から次へと私たち2人分の食料にしては多すぎる量を買い込もうとするガイド2人。
不信感は募り狭い倉庫内をぐるぐると回った。
意を決して聞いてみると4人ともロッジに泊まるから4人分買うのだと言う。
そんな事は聞いてないと思い、ガイドはパフォーマンスの時だけでいいと説明したが、
なぜそんなことを言うのか理解できない様子だった。
鉄格子で守られたレジ横には、頭の高さまで積み上げられた段ボール上から
私たちを得意げに見下ろす中国人がどっしりと腰をおろしていた。
不穏な気持ちをぬぐえないまま、鉄格子でふさがれた入口に群がる人だかりをかき分けて倉庫を出た。
やはりここは何かが違うと感じざるをえなかった。
-続く-
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