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2010年7月6日火曜日

パプアニューギニア撮影記 Part.2 タリ

≪3/20~3/22≫
ゴロカから首都ポートモレスビーに戻り、
ここで先に帰国するアシスタントである友人を一人見送った。
次はサウスハイランド州に位置し、
資源開発の反対派による橋の爆破事件が起こるなど治安が悪化している、
最も気合いが必要と予想されるタリであった。

ところがグルポカでパフォーマンス後に体を洗う際、山の冷水しかなかったためにひいてしまった風邪が
ここで一気に悪化し発熱にまで及んだ。

そうはいってもすでにタリ行きのチケットはとってあるため、
翌朝フライトの2時間前から空港に行きチェックインの列に並んだ。

しかし列の進みが異常に遅く、カウンターに着いたのはフライト時間が15分後に迫った時だった。
こっちは焦っているにもかかわらず、渡したチケットを持って中に入って行き、しばらく出てこなかった。
隣のカウンターの西洋人も同じような状況らしく「朝7時から並んでるんだ!」とずっと激怒している。
ようやく出てきたと思うと「No, weight」と言って何やら英語で説明してくれるがいまひとつ理解できない。

現地コーディネーターの成田氏に電話して代わりに話を聞いてもらうと、
どうやら首都で亡くなったタリ人の遺体が積まれており、
その葬式で里帰りする人が大量に乗り込んで満席状態だということだった。
気性の荒いタリ人に降りろと言って暴動を起こされても困るので航空会社も何もできない状態らしい。

諦めて航空会社が手配してくれるその日のホテルが決まるのを待っていると、
人だかりの中であの西洋人の怒りが頂点に達し、叫び声が空港内に響き渡っていた。
あの人ならタリ人とやり合えるのではないかと思いながら、
今にも殴り合いが始まりそうな状況をハラハラしながら遠巻きに見物した。
こんな常識がまかり通っているタリとは、いったいどれほどなのか苛立ちも恐ろしさも通り越して笑いがこみあげてきた。

成田氏の配慮もあり空港側が島のホテルを手配してくれた。
空港から車で40分程走り、さらにボートで15分ほど海を渡った静かなところだったおかげで、その日はゆっくり休むことができた。
この頃からビデオカメラの液晶画面が突如白くなる現象が起き始める。

翌日は無事タリに着くことができた。
空港は、空港というより柵で囲まれただだっ広い土地だった。
小雨の降る薄暗い曇り空の下、その柵の周りを取り囲むように異常なまでの人だかりができていて、旅客機から降りてきた私たちをじっと見張っていていた。
その人の多さ、異様さにはゾッとするものがあった。
荷物も山積みにされた荷台からそのまま引き渡される。
そこで早くも航空会社のスタッフが怒りはじめ、他のスタッフにも連鎖していく。
なるほど橋の爆破も勢いでやりかねない。

タリでは、村の方に入ってしまえば安全だと言われ、空港から1時間近く車で走った村にあるワリリロッジに5泊することになっていた。
成田氏の紹介のガイド、トーマスとトニーが用意してくれていた車はなぜか警察の車だった。
しかもチャーターは聞いていた通り150キナ(約6000円)と高額で、
貧乏旅行の私たちにとってはかなりの痛手であった。

トニーが「スーパーで5泊分の食料を買う」と言って止まったその場所にある建物はスーパーとは程遠い、
密売でもしているのではないかと思われる古びた倉庫であった。
トニーの忠告通り必要なお金だけ握りしめ、突き刺さる周囲の視線の中、薄暗い倉庫に入った。

警戒態勢の私たちをよそに、次から次へと私たち2人分の食料にしては多すぎる量を買い込もうとするガイド2人。
不信感は募り狭い倉庫内をぐるぐると回った。
意を決して聞いてみると4人ともロッジに泊まるから4人分買うのだと言う。
そんな事は聞いてないと思い、ガイドはパフォーマンスの時だけでいいと説明したが、
なぜそんなことを言うのか理解できない様子だった。
鉄格子で守られたレジ横には、頭の高さまで積み上げられた段ボール上から
私たちを得意げに見下ろす中国人がどっしりと腰をおろしていた。
不穏な気持ちをぬぐえないまま、鉄格子でふさがれた入口に群がる人だかりをかき分けて倉庫を出た。
やはりここは何かが違うと感じざるをえなかった。

                                        -続く-

2010年6月10日木曜日

パプアニューギニア撮影記 Part.1 ゴロカ

≪3/14~3/20≫
初めて降り立った首都ポートモレスビーでは、
噂通りフロントガラスに拳銃の跡がある車にいとも簡単に出会えた。
しかし前もってイメージしていた状況があまりにもひどかったため、
目の前に広がる世界は本当にそんなに治安が悪いのかと疑ってしまうくらいだった。
 翌日、コーディネーターの成田氏と日本大使館に行った。
私たちの意気揚々とした雰囲気とは裏腹に、
彼らは重々しい口で私たちが滞在するポートモレスビー、ゴロカ、タリ、アロタウの治安状況、危険度合いを坦々と告げた。

街には強盗集団がうろついているため彼ら自身も外を出歩けず常に車移動だということ、レイプ事件は日本の約50倍、タリでは近年の資源開発の影響で治安が悪化し、国境なき医師団さえも一度は撤退しているなど語られ、さらに私のボディアートがあまりにも奇抜であるため、できればやってほしくないと本音をこぼされた。

ここパプアニューギニアは植民地の影響でキリスト教が根強く、裸が禁止されていることもあり、
彼らは暴動が起きないか懸念していた。
私としては地味にしていたつもりの服装についても、もう少し地味なものを着るよう指摘された。 

まず最初に行ったのはゴロカ。
外を歩くときは必ず現地のガイドを2人以上付けて歩けと言われ、
1週間前に中学生のレイプ事件があったとも聞かされていたが、思ったより田舎でそれほど危険な印象は受けなかった。
成田氏紹介のガイドのケーもいい人だった。
しかし、やはり近くのスーパーに行く時はガイドが4~5人付いて来た。
スーパー店内を歩く時でさえぴったりと護衛された。

ゴロカの北西10kmほどにあるアサロ渓谷では泥で作ったお面を被るキミニビ族が住んでいて、
その独特な泥装束はマッドマンといわれている。
その村と、そこから1時間ほど登山した所にあるボディペインティングをして踊る人々がいる
グルポカという村の2箇所で、どうしても撮影したかった。

しかしシール枚数に限りがあるのでこの場所で2回分使うわけにはいかず、
シールを貼ったまま移動する必要があった。

以前バリ島でボディアートを行った際、1時間で熱中症になったという経験もあり、
ここ熱帯地域でシールを貼ったままの登山は身体的にもシールの耐久性からも不可能だった。
どうにかしてポーターに私を村まで運んでもらえないかと、ゴロカ行きの飛行機に乗っている時から考えていた。

トレッキングプランの相談の際、ケーに駄目もとで頼んでみると、
あまりにもあっさり承諾され、思わず驚きと喜びと笑いが一緒になったリアクションをしてしまった。
運搬道具も作ってくれるというので図案も描いて渡した。
 グルポカでのボディアートの可・不可がすべてその運搬道具にかかっている。
予約の概念がないといわれる国民性と聞いていたので、その事が気がかりで仕方なかった。
登山前日、本当に作ってくれているのか確認の電話をしたところ、
「すべては明日話すから」と言われ、
どういう意味かわからず不安に満ちた気持ちで当日を迎えた。

今回は助っ人が2人もいたためシール貼りは過去最短の6時間半で完成した。

予定より少し遅れてきたケーは言いにくそうに、3人のうち私だけ追加料金がいると言ってきた。
2箇所の村で一緒にダンスをしてもらう時の料金と運搬費である。

それらを払って車で出発したが、ガイドたちが朝ごはんを買うためにスーパーへ、
山での食材を買いに市場へ、友達の村へ、自分たちの嗜好品ビートルナッツを買いに…
と寄り道ばかりをして一向にマッドマンのいる村に着かなかった。
さらに道路工事で40分くらい足止めを食らった。
雨も降り始めたので本当に今日中に2箇所回れるのか不安になり、
何度も確認したが大丈夫だと言って寄り道を繰り返す。

時間の流れがゆっくりな彼らとは裏腹に、着実に劣化していくシールを見ては焦る気持ちをぐっと堪えた。


ようやく車を降りてマッドマンの所へ向かうことになったが
「30分ほど山を登らなければならない」
と、その時初めて聞いた。

不満は膨れ上がった。

小雨の中、仕方なくカッパを着て汗をなるべくかかないように慎重に登った。運んでくれないのかと尋ねたが、遠くの方を指さしてあそこまで行ったら運ぶと言うだけだった。
ここからあと5~10分で村に着くというポイントでケーが村へ様子を見に行き、その間休憩した。

しばらくして帰ってきて、まだ踊りの準備をしているからあと10分くらいしたらまた様子を見に行くと言い、
それを2、3回繰り返しやっと出発した。しかしもう後5分くらいの距離なら運んでもらわなくていいからお金を返してもらいたい…と思いながら登っていると、友人の驚きの叫び声ではっとした。


そこには期待もしていなかった形状の運搬用腰かけにコケや草で飾りを施してあり、
体に泥を塗り軽装備をした村人が4人待っていた。
その衝撃と感激は、それまでの疲れや不満を吹き飛ばしてくれた。
後に聞いた話では、その運び方は酋長や身分の高い人にしかしない運び方らしいが、単純にその腰かけの素晴らしさに興奮し、感謝の気持ちでいっぱいだった。



 マッドマンは5~6人でと頼んでいた所4人しかいなかったが、気分は高揚したままパフォーマンスを迎えた。
幽霊を表現しているという踊りは静かでゆっくりとした動きである。
村人の見守る中静かに始まり静かに終わった。

結果はというと…

思い描いていた写真・映像は撮れていなかった。
すっかり落胆してしまい、それがさらに疲労感を助長させた。
カメラワークもあるが、ダンサーが広範囲に点在しすぎて収まりが悪かった。

 
 
昼食を取ってから、なぜか同じ場所でモコモコダンスというのをするらしく、
ケーに今度はカメラに収まるよう、まとまった範囲で踊ってもらうようにだけ頼んだ。

しかしメインに考えていたマッドマンがうまくいかなった事と徹夜の準備の疲労で、
ここは私が望んでいたボディペインティングをする村ではなくマッドマンと同じような風貌のダンスならもういらないとさえ思っていた。

とにかく早くすべてを終えて休みたかった。


ところが現れた人たちはボディペインティングを施していた。

実は私のいる所はすでにグルポカだったのだ。
そのダンスは、腰を振り、首をかしげ、「モコ!」と叫び、見る者に笑いを引き起こさせるようなユニークでかわいいダンスだった。
それを見てまた一気に気分は高揚し疲れも吹き飛んだ。
ダンサーの一人が「君は真ん中で君の踊りをしていていいよ」と言ってくれたおかげで自由に踊ることができ、
マッドマンの時よりも村人との一体感を感じることができた。
観衆からの笑い声もマッドマンの時より多く、皆が喜びに満ち溢れていた。

終わった後村人と記念撮影をし、気分の高揚した彼らが私を囲み、離さなかった。
洞窟やお祈りをする神聖な場所に行こうと誘われ、そのまま楽しい時間を過ごしていたが、私が蜂に4箇所も刺されるという悲劇で幕は下りた。


今まで私は、ダンスに対して身構えていたところがあった。
高い身体能力や洗練された技、それらによって見る者を感動させられるものに憧れを抱き、
また目指そうとしていた。

しかし、モコモコダンスを見て、同時に体験することによって、
もっと心の力を抜いた表現で、見る者の心も軽く楽しいものへ導くダンスも有りなのだと実感した。
今後活動していく上で大きな道しるべとなりうる経験となった。



2010年5月7日金曜日

更新遅れましたが、無事パプアニューギニア(PNG)から帰国して参りました。
実は出発前こんな事がありました。


本屋を駆け巡った結果、行き先ののガイドブックが絶版という事実が発覚。
旅立ち1週間ちょい前、それでも何か無いかとネットで探していると日本で唯一のPNGガイドブックを発見。
その本はネット販売のみで、HPに発注メールのフォーマットがあったので記入しかけたが、何日で届くか気になったので電話してみた。
するとそこのおじいさん社長が出て

社長:「PNGに行くのは初めてですか?」
フネ:「はい」
社長:「どのくらい行かれるのですか?」
フネ:「1カ月近く。」
社長:「ぇえ!誰と何人で?…ホテルは予約されてますか?」
フネ:「いいえ、取ってません。女2人です。」
社長:「ええ!!女2人!?知り合いはいるんですか?国内線チケットは取りました?」
フネ:「いいえ…(汗)」
社長:「一刻も早く手配なさってください~!!危険すぎます!まず必ず国内線は日本で予約して、それから~・・・・・・」

と、何も知らない私に現地情報をあれこれ教えてくれ、女二人ということでかなり心配され、その後も何回か電話をかけてきてくれた。
とりあえず国内移動はほぼ飛行機になるらしく、日本で取ると40%OFFになるとか。
そこで友達がPNGの航空会社に電話をすると、たまたま支社長が出た。
そこでも前回と同じような質疑応答が繰り広げられ、
「ホントにこれは命の電話だよ!僕が電話に出るなんてめったに無いからね!このままじゃ飛び立たせれないからすぐ営業所に来て!」と。

数日後、言われるまま二人で航空会社に行き、現地のコーディネーターを紹介してもらった。その人と現地ホテル情報やガイドなどのやり取りをした。支社長のお願いともありタダで色々協力してくれるようだった。
国内線はホントは変更不可でとらなきゃ安くならないのに、支社長が権力でうまいことやってくれ、現地に行ってから状況に合わせてチケットを確定できるようにしてくれた。

そして出発前日、旅の終盤に合流する予定のカメラマンと打ち合わせをしているとその人のもとに「今度PNGの親善大使になる議員と飲んでるから今から来いよ!」と、電話が。

なんだかよくわからないが凄い展開になり、衆議院の飲み会に同席してしまった。
格式高いホテルの御座敷の宴会場?世界が違いすぎてなんと表現したらいいかわからないが周りはスーツに七三分けムース。
もはや自分が異物混入にしか思えない状況。
しかしお酒の席もあって意外とフレンドリー。
親善大使ではなく事務局長になるらしいが、3月末にPNGに行くらしい。どんぴしゃで私たちとかぶっているので会えないか期待が膨らんだ。
最後、議長(?)の長い長い挨拶を聞き、一本締めまで参加して帰った。

ここまでとんとん拍子に事が進んだあげく、PNG事務局長に会えるミラクルまで起きて浮足立っていた。
PNGの大統領にも会えるんじゃない?!なんてはしゃいでいた帰りの夜道、女性が立っていた横を通り過ぎようとするとその人がふらふらと歩きだした。
距離感とか挙動が変な感じがし、気が狂った人かと思った瞬間友達に引きとめられた。よくよく見てみると、その女性のパンツは足首まで下がっていた。

びっくりして立ちすくんでしまった。
友だち曰く殴られたのか口から血が垂れていたそうで、もう明らかにレイプ直後。
その女性はそのままふらふらと道路を突っ切って、反対車線側にある警察署に駆け込んでいった。

えぇぇぇぇぇぇー!!!???

二人ともしばらく放心。そしてこれはお告げだという結論に陥った。
PNGなめんなよ、 気引き締めて行けや、と。


こんな事があり、当初は相当な覚悟をしていきましたが、色んな人に助けられ、
これと言った事件にも巻き込まれず、何も盗まれず、感染病にもかからず、足の裏をざっくり切ったくらいで済みました。日焼けで皮膚が脱皮し続けてますが。


長くなってしまったのでちょっとずつ旅行記書きたいと思います。

2009年10月10日土曜日

インドネシア撮影旅行日記2


結局日記更新できないまま日本に帰ってきてしまいましたー。

今回のBody Artはこれを体験したら怖いものなしと言えるくらい今までで一番ハードでした。。。
「この遠い異国の地で土に還る運命なのか」と思ったくらいです。
その土地はバリ島に比べ物価も高いのにはるかに貧しく、何をするにもお金がかかり、Body Artをするためにトレッキングを組んでもらった人は内部事情を知らないガイドで、いざ行ってみると話が違う違う違う…そのおかげでお金はすっからかんになり断食。この危険な土地で本気で野宿することを覚悟しました。
が、なんとかぎりっぎりで手こずりながらもお金を下ろせて野宿を免れました。
あそこで野宿すればきっとヤラれるか殺されるかしてたと思います。。。

トレッキングは2泊3日で、行きは登るのに3~4時間かかるのもかかわらずお昼休憩のとき以外は水を支給されず、脱水症状になりながら気力だけで登りきりました

渇き 灼熱 冷え ストレス 風邪・発熱 疲労 雨 貧乏 に見舞われながらも奇跡的にBody Artを実現することができました。
本当に今回の旅は書きつくせません。もう二度とあの土地には行きたくありませんが、おかげでいい作品になりそうなのです。
私にかかわってくれたすべての人、もの、自然に感謝しまくりです。ありがとう。

2009年9月9日水曜日

~インドネシア撮影旅行日記1~

今日でこっちに来て1週間になります。芸術の色濃い文化と、人のあたたかさと、おもしろい日本語をしゃべるバリ人、やっぱりここウブドはいい所です。
おもしろいことになぜか日本のコメディアンに似てる人が多いのです。すでにナイナイの岡村は2人、クリームシチューの有田、ココリコの田中、ダウンタウンの松本似を発見しました。コメディアンではないですがパパイヤ鈴木似とも友達になりました。

前回のBody Artがウブドだったので今回は別の島に行きますが、チケットや手伝ってくれる友達との兼ね合いで6日間の滞在になります。
思ったよりチケットが高くて、関空とデンパサールと同じくらいの5万7000もしましたーどひゃー。ちょっと痛手です。。。でもそこのスタッフのおじさんがとても慈悲にあふれたやさしい笑顔のかっこいい人だったのでよしとします笑
案の定衣装もまだ完成しないまま、いよいよ今日の深夜2時半の飛行機で飛び立ちます。
不安いっぱいですが突き抜けた仕事をしてきたいと思います。